昭和四十七年五月十四日 朝の御理解
X御理解 第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、           三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と           言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心し           て身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打           たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐           ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれ           ど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油           断すな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
 油断をすな。慢心が出るとおかげをとりはずすぞと。おかげをとり外す程しのものが慢心。慢心とはどういうふうな場合に言うのであろうか。又、油断をすなという事はどういう事であろうか。
 人間生身を持っておる事でございますから、普通でいう油断なら、迂闊にしておると、これはいつも神様を心に頂いておけばいいわけですけれども、一生懸命に例えば何かに打ちこんでおる時には、やはり迂闊にして神様が遠のいておられるような事がある。お互いに。
 油断をすなと、いわゆるおかげを落とさんで済む為に、油断をすなと。慢心をするという事は増長するという事でございましょう。
 世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるという、まあ、例えておっしゃっておられますが、三宝様とは穀物の意とありますように、人間の一番大切なもの。
 ですから信心をいよいよ進めていくという人の、一番大切な事というてもいいわけです。信心させて頂く者が一番大切なところはどこにあるかと。
 昨日の御理解のように、いうなら、寒山捨得という心がけであるという事は、これは素晴らしいお徳を受ける姿勢だというふうに頂きました。いつも寒の山に登っておるようなもの。成程登っておる間はね、かえってだからぽかぽか暖かい位の事。けども、いつもその寒の山に登っているときばかりのようにいけん事があるのです。
 いうなら、いつも貧乏くじを引かせて頂く、いうなら、如何にもそれは縁の下の力持ちのようでありますけれども、そこに信心の力というものは、誰も知らんのですけれども、神様が見逃したまうはずはないのですから、力を受けるというわけです。
 それからいうて、いつも貧乏くじを引いてというのはね、ですから、これは富永さんが昔頂かれた御理解の中に「楽はすると思うなさせて頂け」という御教えを頂いた 例えば今日は、お芝居を見に行こうというて誘われた。いいや、私しゃもう御無礼しますというてね、「いや、もう入場券も用意してあるのですよ」「いいや」とこうこれはいらん事ですよね、いうならば。
 自分でお芝居を見に行こうというのじゃない、自分から贅沢をしょうというのじゃない。けれども神様が人を使うて、そんなら贅沢なものでも与えようとなさる。
 お芝居でも見せてやろうとなさる。それを「いいえ、私は」というのはこれはいけませんね。だから神様から楽はさせて頂くというところにです、勿体ない、私のような者にこんなお芝居を見せて頂いて、という事になる。有難いものだけしか出てこん 問題はその有難いが伴えばいいわけなのです。ところが、自分が今日はいっちょ、よか料理頂かにゃというて、頂いたりした後等はね、特別いい料理したりしたらね、今日は身分不相応な事をしてとちょっと心にかかる。そのひっかかる事がいけんというわけです。だから三宝様踏むなと、これは人間の命の根であるところの穀物を粗末にしちゃならんぞと、昔からいうように穀物を踏むと目がつぶれる。
 私共の罰は、子供の時、ご飯を踏むと「足が額につくよ」と言いよりました。という程しに大切なもの。それはもう命の根ですもんねえ。ですから、私共が肉体のお育てを食物で頂くように、信心のお育てを頂く。信心の成長を願う、お互いが。
 そんなら信心の育まれるという事の為には、只、じっとしていて育つものじゃ決してない。何十年信心しとったって、だから信心は堂々まわりでひとつも進まない人ががある。それは穀物にも等しい。信心を育てる一番大切なものを粗末にするから、こげなもんはいらんと向こうへ押しやるごとする。自分の心を育てて下さる、それをお粗末にするような、そういう心ではいけない。そういう心の状態の時にいわば、油断が出るのですね。
 油断をすなと、そこで私は、油断をすなという事が、そんなに難しい事じゃないのだと。心にかけ続けさせて頂いておれば、もう神様のおかげで、おかげでと、一念その事を思うておればです、思い出すようじゃ惚れよが薄い、思い出さず忘れずにというようにですねえ。もう、私の心の中はず-っと神様がござるんだと、そんなら神様がず-っとござるから神様がにらみつけてござるという事じゃ決してない。見張りしてござるという事じゃないのです。もう、氏子の心任せのところへ行って下さる。  お便所へいけば、お便所へついて行って下さる、寝間にいきゃ寝間へついて行って下さる。お芝居見にいきゃお芝居の場に神様がついて行ってくださるという神様なのだから、飲みにいきゃ、飲みに行ったところについて行って下さるという神様なのだからというわけなのです。
 ですから、もう思い出さずに忘れずにというところをやはり、本気で修行させて頂く。まあ、結局、私は神様のおかげを頂かねば立ちいかんという思い込みです。
 そういう意味で昨日、十三日会に若先生が私の青年教師に対する思いを聞きながらまあ、感じとった事だというて話しておりました。
 もう、親先生の場合には、子供の時から私は神様をはずれたらおかげを落とすんだとぞ、こう思い込んどった。私は神様のおかげを頂かなければ成功は出来んのだと。 段々、長ずるに従って、お商売するようになっても、やっぱりその思いというのはます々強うなるだけであった。そういう心がです、私は・・・・
 それはもう金光様じゃなかったっちゃ、何様でんござるからというごたるふうな信心では、だから今日私が言おうとするところはわからない。
 もう金光様のおかげを頂かなければ、私にはもう合楽がなからなければ、私は立ち行かんのだというその思い込みが自分の心の中にいつもあるという事。
 これならね、いうなら油断の出ようがないのです。してみると、ばらさか難しいこつじゃなか、そこまでは一つ極めにゃいけん。そこまではやはり神様を知らなきゃいけん。合楽の内容に触れなければならない。そして、成程という事になってくるわけです。
 今日私は、御神前で菊のね、菊の花の様々な菊の花を頂いた。その様々な菊の花というのがね、大輪の菊の花もあった。そうかと思うと、野菊が咲きみだれておるという、それかと思うと、お野菜の春菊の花。それやらね、じょちゅう菊とか、もう様々な菊を頂くのです。そして、今日私頂いたらこの四十五節であった。それで私は、この一番はじめの三宝様踏むなというところを大事にする、信心のお育てを頂かねばならない。神様がこの事によってお育て下さろうとしておる事を向こうへおっしゃろうとしちゃ相済まん事になるのです。同時に油断をすな、慢心が出るとおっしゃる。そんならいつも、こうやっとかにゃいかんごたる感じがする、油断するなとおっしゃると。私は家の修行生の方にいつもよく言うことですけれどもね、私がどんなに酔っぱろうとる時でもかんまん。どんな馬鹿言いよる時でもいい。もう今親先生に隙が出来とる時、いつでも打ち込んでこい、いっぺん師匠をぐ-の音も出らん位にひとつ叩いてみれと。私は弟子さん達の前にはそういう姿勢をとっとるです。
 塚原ト伝のお話がありましょうが、師匠がいつも言うておった。だから今日こそはと思うて自在鍋のかかっとるところで、何か炊きものをしとるわけですね。蓋をとって案配を見とるわけです。だからこれはもう、いよいよ両方の手を使うとる時じゃけんで、今なら大丈夫と思うて木剣をぼ-んとおったところが、その鍋の蓋で受けたとこういうわけです。
 もうその時、いつでもどんな場合でも、受けこなされるという事、という事はですね、そんならどんな中にあっても、いわゆる神様が生き生きしてござるという事はですね、もう神様を思い続けるという、そんな事じゃない。
 例えばこの菊の花でいうなら、例えばいやしい事をしておる、春菊という事は食べるという事だと思うです。食べる徳なんです。食べる事の為に、一生懸命いやしんぼうしてる時でもという事なんです。
 徐虫菊というのは素晴らしい、もういつも自分の心を本気で見極めて、自分の金光大神についておるいうならば、こういうものがあるから自分の信心が育たんのだ、こういう心が内容にあるからおかげが受けられんのだと、例えば発見をする。そこにいわゆる徐虫菊。虫を除くと、そんなら自分の心の中についておる虫のようなものを除くという事。それはもう本当にですねえ、油虫がついたら、私は昨日、はじめて聞かせてもらってみたんじすけれども、もう、家の客殿の横の梅の木がね、もう葉がちぶんでしもうとる。これは、もういっぱい虫がついておりますという事だった
 だからもう、これは梅そのものが、どんなに信心辛抱の梅の花、辛抱しよるごたったちゃ、そういう虫がついておったんじゃぁいけんのです。だから虫がついとるとをそれを発見しなければいけんのです。もう本当、信心辛抱しぬきよる、一向信心がのびない、そういう時は必ず徐虫菊、菊の時、徐虫菊という事はね、もう本当に自分は知恵やら力やらじゃ出来ない神様のおかげを頂かなければ出来ない。もうこれは本当にそうなんです。その為にです、やはり私は本気で悩んでみなければいけないと思う 自分はどうして心の状態がこんなにあるだろうかと本当におかげの受けられん手本のごたる。そういうものを、自分の心の中に発見する。これがあってはおかげが受けられんぞと。そこで、私は本気でそれに取り組んで悩まなければいけん。
 信心はやっぱ悩まにゃいかん。悩む時には本気で、私はもう一週間位ね、今はそんな事ありませんけれど、もう、これを取り除かせて頂かなならんというて本気で気がつかせて頂いて、取り除こうとする事に決めたらもう、本当に胸が後前から痛うなりますね。もう息つく暇がなかごたる。神様、しばらく待って下さいと言おうごたる。 もう、寝ても覚めてもその事ばかり、かかっとる着物が人間に見えるごたる時代がありました。そうして、神様にお縋りして、それを取り除かせて頂く事に一生懸命にならせて頂いて、まあ、神様がとって下さったら、後は楽な事楽な事、こんな楽な事がどうしてという位です。
 さあ、それがめぐりなんです。お互いは生まれながらにして、神の分身ともいう、もう、神の誕生なのだ、人間が生まれた時には。
 ところがです、その神の誕生に、いわゆる先祖代々からとでも言おうか、いわゆるめぐりというものも、一緒についてきているという事。だけど、そのめぐりがあったんでは、折角の信心辛抱させて頂きよるけれども、葉がちぢみ悩んでしまっで、いわば、油虫がついてしもうとるという事。そしたら正義さんが今先生、油虫がねつかん薬があると、根元にそれを振っとくだけでよかと、ほう、そげな薬があると、そういう薬をね、神様から一服頂かにゃいかん。もう、あらっという間に、ほんなこてですよ、けれどもそれにはね、もう本当に神様がそういう薬を下さると言うか、そういうおかげ下さるまでは、本気で悩まにゃいけんです。人間じゃけん、こん位のこつはしようがなかと言いよったんじゃ、一生うだつはあがらん。
 例えば、皆さんが可愛がっておられる犬とか猫とかあるとしましょうか、こうやってだんごろりんしょる。苦しみよるわけです。私はだんごろりんする位、これもある意味では非常に楽しい事です。もう、息の詰まるごとあるけれどもです、これを如何にして取り除かして頂こうかと、一心にお取次を頂いて、神様にお願いをさせてもろうて、もうそれこそ、それを思い出したらしまいには、とうとう胸が痛うなんてから息のされんごと痛うなる。
 けれどもそれが取り除かれた時です、いわば私がそうやってだんごろりんして、苦しんでおる時にです、例えば、犬なら犬、猫なら猫が、自分の体にダニならダニがついておる。自分ではどうする事も出来ないようなもんです。犬猫じゃ、自分ではとりきらん。人間もそうです、自分でとれるもんじゃなかて、めぐりは。けれども取り除く為のですね、いうならば、修行をいとうてはならん。
 それでもう本気で、それを見極めてね、これがあったんじゃ信心が伸び悩むという事をね、段々信心がわかってくるとです、信心辛抱が折角出来ておるのであるから、それに油虫がついたんでは、花もよう咲かん。葉はちぢんでしまうという事になるのです。その信心辛抱が本当に花にもなりゃ実にもなると、お徳にもなるというようなおかげを頂く為に、これを一つ取り除かないかん。それには本気で私は苦しまにゃいかん。お取次を頂いて、苦しまにゃいかん。それが信心の稽古だと、それがまあ、寒山のところと頂いてもいいでしょう。
 私共がそうやって本当にその事を取り除こうとするその姿は、神様がごらんになったら、素晴らしかろうと思うですね。本気で助かろうとしとる。それには本気で改まろうとしておる姿。神様の目にとまらんはずがない。
 そこで神様が一週間なりししてちょいと取って下さればそれっきり、もう自分が二人見れれるごたる人間になれるです。めぐりが取れたら。これは不思議です。
 だからこれは私の精根、もちるいなんてんといわずに、そのもちるいでもええ、かわいらしかとかもちるいもよかですたい。けれども、許されない持りゅう、神様がおかげ下さろうとしても、そのおかげを吸収してしまうような例えば、油虫のごたるとがついとったんじゃでけんのです。そういう時にです、神様にお願いさせて頂いて、徐虫菊をひとつ振って頂かにゃいかん。私はその本気で改まろうとしとる時には、神様が徐虫菊を既に振って下さりよる時だと思う。
 ですから私共の心の中には、そんならおかげを頂く事の為、只、飲んだり食うたりする事の為だけでもおかげ頂きたいという、そして私は神様のおかげを頂かなければ出来んのだという思い込みをもって商売繁昌を願うもよかろう、病気全快を願うもよかろう。そんな事願っちゃならんというのじゃない。もう、あなたのおかげを頂かなければというのが春菊です、それから野菊。
 これは徹君が学院に行く時でした。御神米にお書下げを頂いた。「咲くまでは草と呼ばれる野菊かな」。
 もう、家の息子はどんこんされん、言う事聞かんと例えば言うとってもです、本気で金光様の信心させて頂いてです、結局雑草と見間違えられるという事です。
 皆さんが一生懸命信心しよんなさるけれども、いわゆる花はまだ咲かないという時です、だからそういう時にはです、私共が咲くまでは、草と呼ばれる野菊かな。
 合楽教会が、教会になるまでは、皆さんがどう言うとったですか、合楽の信心は金光様の信心じゃないと言われた。あそこは拝み信心でと言われよった。もう面からいわれよった。まるきりもう金光様じゃなかつが、金光様の邪魔になりにいっとるごという。ところが、段々すこうしばっかり何か咲きだしたところが、やっぱりあれはほんな菊の花ばいと言いだしたようなものです。だからもっともっと、野菊位のこつじゃない、それに手を加えて、大輪の菊の花が咲くようななったら、やっぱりあれが本当だという事になるのです。私はその菊の様子を頂かせてもろうてね、自分の心の中に、どの菊でもよいから、自分の心の中にあらなければいけないという事、これが油断をしないという事だという事です。
 只、おかげを頂く事に一生懸命でもかまわんのですよ。私は神様のおかげを頂かねば助かられんのだ、おかげ頂かれんのだという思い込みがあればいいのだという事。 そういう生き方にです私共は油断をすなという事は、そういう事だと思うです。もう、慢心の出ようがない、おかげを取りはずす事がない程しの信心。それはこう何か大変きばった、まあ今日私は、その徐虫菊のところはああ申しましたけれども、それも嬉しい楽しい苦しみなんですよ。
 自分の心の中から、いうならおかげの受けられんものを取り除こうと一生懸命苦労しているのですから、楽しい事なんです。これがとれさえすればという楽しみがあるのです。切る事は難し、されど妙賀哉である。
 信心の喜びに触れたい、喜びの妙にも触れたい。それにはこの心があったんでは、神様が喜びを与えて下さらないとわかったらです、やはりきついけれども、それはじゅずない。けれども、やはりそれを切り取る事に本気にならなければならないという事。
 あるお徳の高い先生がおっしゃったという。信者が難儀も持って一生懸命にお参りしとる時なら、絶対大丈夫、どういう問題を持ちこまれても。ところが信者がおかげを受けてからね、やれ々というてから、もう忘れちゃおりまっせんばってんかというてから、時々参ってくるごとなった時が危ない。おかげを頂いた後が危ない。
 おかげを頂くまで一生懸命、信者が参ってくる時ならどういう難儀な問題であろうが、金光様にお取次願ってからする事なら、もう心配いりませんよと。
 これは先生どうし、先生に話されたという事です。難儀な問題をもってきてから、へとへとしござる取次の先生が、けれども難儀な問題を、どうぞどうぞというて願いにくる時にみ大丈夫だと。けれども、そのおかげを頂いた後に、油断が出るからそこんところをよい教導をしなければならないというて教えられたという話があります。 油断をすな、油断をするところから慢心が出る。それがおかげを取りはずす元になる。その為にいよいよ世に三宝様踏むなという。穀物の意、けれども信心のお育てを頂く事の為に用意して下さってある様々な問題、事柄、苦しい事でも、それは自分の信心をお育て下さるところの、いうなら三宝様なのですから、それを踏みつけるようなお粗末にするような事があってはならないという姿勢で頂くという事。
 段々、そういう身について参りましたらですね、もう本当にいつでも隙があったら打ち込んで来いと言えれるようなね、心の状態が開けてくるのです。
 それがね、ポカッと打ち込まれてハッとするような事があるけれども、見事にやっぱ受け止めとるです。受け止めたという実証がそこにある。それには私共の心の中に絶えず、どの菊の花かがなからなければいけないという事。
 皆さんの心の中に咲いておる菊の花は、果してどういような菊の花であろうか。まだ、菊の花とも何ともわからない、まだ野菊が花をつけてない時には、まだ雑草とよばれておるような、金光様の信心ばっかりするけれども、難儀が続くじゃないかと、いわれるおるような場合はそうでしょう。けれどもそこに野菊の喜びはまだなくても心の中に神様がこのようにして修行さして下さる。このようにしてお育てくださるという信心の喜びがね頂けておる。その菊の花が咲いておるなら、もう絶対咲く時なんです。だから誰にどうこういう事も何もいらん。神様がそれこそ時節を待って、おかげを下さるのですから、いよいよ信心に精進しなければならない。
 まあ、合楽の方達はこのところが多いのじゃなかろうかとこう思いますねえ。どうぞ今日のこの御理解を油断をするなという事です、大変難しい事のようだけれども、一通りの事を自分の心の中にマスタ-させて頂いたら、油断をせんで済むという事は決してきばりまわる事ではない。いつも御神前にぬかずいておるといった事ばかりでなくてもいい。どういう時でもいいというような事を聞いて頂きましたですね。
                                どうぞ。